先日、社内でのプレゼンテーションを終えた。与えられた時間の中で、自分なりにやれるだけの準備は尽くしたつもりだった。適当にこなした仕事なら、「準備不足だったから仕方がない」と割り切れる。しかし、今回は違う。終わった後に残ったのは、胸の奥がヒリヒリするような、得体の知れない「物足りなさ」だった。
客観的に振り返れば、説明としての体裁は十分に保たれていたと思う。点数をつけるなら、70点か80点。大崩れしたわけではない。それなのに、なぜこれほどまでにモヤモヤしているのだろうか。
きっと、人間は費やした努力が大きければ大きいほど、本番でのわずかなポインターのブレや、言葉の詰まりといった細部を拡大解釈して自分を減点してしまう生き物なのだ。理想が高ければ高いほど、現実の泥臭いパフォーマンスとのギャップに苦しむことになる。
しかし、本当の物足りなさの正体は、そこではない気がしている。
私が本当に求めていたのは、100点満点の説明をすることではなく、その先にある「相手の心を動かす、響かせる」という120点の領域だったのだ。だからこそ、聞き手の反応に「響いた」という確かな手応えが得られなかったことに、どこか飢えを感じているのだろう。
私のために時間を割いてくれた、数十人の仲間たち。彼らの貴重な10分間をもらいながら、私は何か一つでも、明日への気づきを届けることができただろうか。「誰も興味を持っていなかったのではないか」という不安が、静かに頭をよぎる。
けれど、その答えはプレゼンの直後には決して分からない。
もしかしたら、私の言葉は誰の手にも届かなかったかもしれない。あるいは、誰か一人の心に小さな種をまいたかもしれない。その種は、今日明日ではなく、数ヶ月後や数年後に「あの日、あの人が言っていたのはこういうことか」と、ふとした瞬間に芽吹くものかもしれない。
そう思ったとき、時間をかけて準備にしがみついた自分に対する後悔は、綺麗に消えていった。この組織が少しでも強くなるために、ほんの僅かでも貢献できた可能性があるのなら、それだけで準備した意味はあったのだ。
そんな内省の最中、一つの言葉に出会った。
「全力で準備に向き合った人にしか訪れない、極めて贅沢で、次に繋がる質の高い『渇き』をかみしめる」
胸のつかえが、すっと取れていくような感覚がした。 この物足りなさは、不甲斐なさの証拠ではない。妥協せずに挑んだからこそ手に入れることができた、次へ進むための切符なのだ。
この心地よい渇きを、愛おしく思いたい。 こうして一人、机に向かって振り返る時間が、私をまた少し新しくしてくれる。その事実が、たまらなく愛おしく、楽しい。


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